【難聴つながりの有名人】アーティスト・アートディレクター増田セバスチャン氏
きゃりーぱみゅぱみゅのプロデュースなどで活躍
増田セバスチャン氏は幼児期に難聴の病気を患う
増田セバスチャン氏といえばきゃりーぱみゅぱみゅさんの、
「PONPONPON」で美術を担当されたあのカワイイアートが有名ですよね。
数年まですが「イブA錠」のパッケージデザインもされていて、
薬局ではひときわ目を引きました。
そんな、大活躍されている増田セバスチャン氏ですが、
幼少期は難聴の病気を患うなど非常に苦労されたそうです。
1970年、千葉県松戸市の呉服店の長男として生まれる。
幼児期に難聴の病気を患ったり、思春期に家庭崩壊を経験したり、壮絶な少年時代を送った。
高校卒業後は大阪に出ていくも、うまく溶け込めず、
引きこもり状態になってしまったそうです。
その間はとにかく図書館で本を読む毎日。
文学からビジネス書まで100冊以上の本を読みながら、
ずっと自分の将来を考えていました。大学に行って就職すれば「普通」の人生が送れたのに、
自分はドロップアウトしてしまったのでもう未来がないかもしれない、
と絶望していたのが20歳ぐらい。
引きこもりから原宿にショップ開店、初月の売上はわずか2千円
その後は、寺山修司氏の本「書を捨てよ町へ出よう」を読んで、
引きこもってるのではなく、なにかしらやってみようと思い立って再起したといいます。
その後は劇団に入りますが全く評価されず、
高校生の頃、逃げるように来ていた原宿でお店を開くことになります。
お店も最初の月の売上は2000円。
しかしながら少しずつその独創的なデザインが原宿に受け入れられます。
その後は、みなさん御存知の通り、原宿発のマスコット的存在、
きゃりーぱみゅぱみゅのMV芸術を担当されるなど活躍の幅を広げていきました。
お金を稼いでから好きなことをやればいい?
原宿に開いた「6%DOKIDOKI」ですが、
次第にお客さんも増えていったときに多店舗経営をしたそうです。
自分の商才に自身を持てた一方で、
周囲のヒトからかけられる期待は大きく「もっと作って欲しい」という、
声がたくさんかかったのです。
アートがやりたい自分はこれで良いのかと悩み、
いろいろな人に相談したのですが…
「そういうのは稼いでから浮いたお金でやればいいじゃん」っていう反応がほとんどだった。
じゃあ、もうかって余裕ができるのは何歳なのか計算したら、早くても35歳。
これはやばいって思った。なぜなら30歳の感性って35歳や40歳のときにはもうないから。
今作りたいものを作れなかったら終わってしまうと思って、1店舗だけ残してあとはやめました。
ここで、「やめる」という選択を取る決断ができたのは、
自分がやりたいこととその価値について真剣に考えられたからでしょう。
1店舗だけでもなんとか生きていける、
そう思えたこともあると思いますが、今自分が作りたいものを今作ること。
この自分の声に従える強さというのは、
かなり強いものですし、決断も並大抵のことではなかったでしょう。
本から得られる人間の心模様を学ぶことが表現につながる
増田セバスチャン氏はどうやってこうしたオリジナリティを生み出すのでしょう。
そこには十代の頃からの挫折と悩みの蓄積があるようです。
自分のオリジナリティーを築くまで20年かかって、
それまではやりたいことをやれない悔しさをずっと抱えてきたから、
アイデアが思い浮かばないということはないですね。どの引き出しを開けようかと迷うぐらい。
振り返れば、鬱屈していた若い頃にたくさん引き出しを作っていました。
若いときに考えを巡らせて、
様々な人の意見を聞いて本を読んで、
自分の作品を作って、ショップを開いて、
とにかく考え続けた結果として、
いつのまにかたくさん引き出しを持っていたのです。
その背景にどんなストーリーがあるのか、
何を言わんとしているのかを想像できる力が、
増田セバスチャン氏の創作の源泉になっているのかもしれませんね。