九州大学大学院医系学府博士課程の脇園貴裕大学院生(研究当時)、共同研究員の安井徹郎医学
博士(研究当時)、同大学大学院医学研究院の中嶋秀行助教、中島欽一教授らの研究グループは、
傷害を受けた成体マウスの内耳において、少数の新しい神経細胞(ニューロン)が出現すること
を発見し、その数を増殖因子とバルプロ酸の同時投与により著しく増やすことに成功、その結果、
一度失われた聴力が回復することを発見しました。
聴神経の再生というのはどういうことでしょうか?
この研究で成功した「新しい神経細胞(ニューロン)の出現」とは何でしょうか?きこえる仕組みは思っているよりも複雑なので簡単におさらいがてら解説していきたいと思います。
耳は大きく3つに分けられる、外耳・中耳・内耳
耳は外耳・中耳・内耳の3つの分けられます。よく聞く「鼓膜」は外耳です。
よく子供のころになることの多い「中耳炎」という病気はこの3区分のうち真ん中の器官が炎症を起こしている状態です。鼻とつながっている耳管は特に炎症しやすい部分なので早めに処置することが大切です。
内耳というのは何でしょうか?あまり聞くことは無いですし、目に見えず、かなり奥の方なので詳しく知っている人は多くないかもしれません。内耳は中耳の更に奥、下の図を見て頂ければわかるように赤で示した何やらカタツムリのような部分を指しています。
音は耳に入ると外耳・中耳と順に伝わり、内耳で音波が内耳液に伝えられ、内耳の感覚器に感受され、内耳神経に伝えられます。その後聴神経を経て脳に届きます。
音は空気の振動ですので、内耳も空洞のように思いますが「内耳液」というように、実はリンパ液が満たされている器官です。鼓膜やキヌタ骨、他の体で言えば骨や臓器のようにしっかりとした形が見えるよいうよりは、リンパ管のように非常にやわらかくデリケートな器官です。
そして、内耳には平衡感覚を司る「三半規管」と音を司る「蝸牛」があります。蝸牛はその名の通り「カタツムリ」という意味の漢字です。確かに中国語ではカタツムリのことを「蜗牛」と書きます。
イラストを見ると、2回転半のカタツムリの殻のような形をしていますね。そして、この蝸牛から聴神経という脳につながる神経が出ていることがわかります。
音を信号に変える蝸牛の仕組み
蝸牛の中には蝸牛管と呼ばれる空間があり、その中にコルチ器(ラセン器)があります。このコルチ器に内毛細胞と外毛細胞という細胞が並んでいます。これらの有毛細胞は重要な聴感覚細胞であり、蝸牛神経の末端となります。
画像でいうと中央のピンク色の部分がコルチ器です。この有毛細胞は神経支配を受けており、末梢から中枢に伝える神経(求心性神経)を構成しています。よって、これら神経細胞がラセン神経節を担っているということになります。
ラセン神経節にある神経細胞(ニューロン)は、聴覚の感覚受容器から次のシナプスまで伝える神経細胞であり、これを「一次聴覚ニューロン」といいます。
神経は、細胞を出入りするイオンを使って信号を伝えていますので、ここで具体的には「内耳の蝸牛にあるコルチ器で受容された信号が、ラセン神経節に伝わり、蝸牛神経(内耳神経)として、その先の背側蝸牛神経核と腹側蝸牛神経核に伝わる」ということになります。
この後、一次ニューロンは上オリーブ核、外側毛帯遠心繊維、下丘核、支障内側膝状帯(MGB)、そして最後に五次ニューロンまでつながり、大脳皮質(聴覚野)に伝わっていきます。
長くなりましたが蝸牛から脳まで続くニューロンで伝達される一連のながれを「聴覚路」といいます。
らせん神経節ニューロンの再生とはどういうことか?
ここでこの研究結果に戻りますと、内耳や聴覚神経が一度壊れてしまうと、当然蝸牛内のラセン神経節がうまく働かなくなり聴力が落ちてしまいます。
それでも、損傷した時、人間の体は増殖性を有する神経幹細胞様細胞を作り出しているようです。
ただ、これまでの研究の観察では、これらの増殖性細胞は神経細胞へとは分化せず、全てグリア細胞(神経細胞ではない細胞の総称)へと分化してしまうとされ、聴力改善も観察されませんでした。
つまり、内耳の傷害が発生したとき自然にこの増殖性細胞が生まれるのですが、残念ながら神経細胞としてまた新たに定着するのではなく、やはり神経細胞はこわれたままになってしまうということです。
この研究では内耳傷害を与えたマウスを詳細に観察し、この傷害時に出現する増殖性細胞が、実は少数ながら神経細胞へと分化しているということを発見したのです。
そして、この神経細胞への変わる増殖性細胞は増殖因子とバルプロ酸を投与することで、この神経幹細胞様細胞の増殖を促進することができることがわかりました。
この成果は、内耳の傷害が発生した際にわずかながら生まれる神経細胞を促進させ、より多く分化するよう作用させることにより、新たに聴覚神経細胞を増やすことができれば、傷害により失われた聴力が改善できるのではないかと考えたものです。
実際にマウスで計測された聴力回復はどの程度?
実験前にマウスの聴力を確認し、ウアバインの処置後に増殖因子とバルプロ酸(VPA)で治療をした群と治療をしていない群とで聴性脳幹反応検査(ABR)で比較を行いました。
ABRは新生児スクリーニングでも用いられる脳幹の脳波を測定することで聴力を測定する多角的聴覚測定の方法です。
この増殖因子とバルプロ酸で治療をした群では、ウアバイン投与後 7日目に一旦聴力を失いますが、35 日目までに不完全ながらも聴力が回復することがわかりました。
上の図表におけるABR検査の結果を見てみるとウアバイン投与後に110dB程度まで低下した聴力ですが、35日後には90dBで反応が見られることから、20dB程度改善していることがわかります。
細胞にとって毒にも薬にもなる強い刺激が必要?
この研究結果はとても気になります。私は生化学に詳しいわけではないため、正確な理解ができていない可能性があることは予め申し上げておきますが考察をしてみたいと思います。
ウアバインという細胞にとっての毒の投与により、ラセン神経節ニューロンが傷害される一方で、体が損傷から回復するための増殖性細胞を作り出すスイッチになっているようにも思えます。
この増殖性細胞は実はよくよく観察すると自然にごく少量生まれていたのですが、これまではあまりに少量であったために聴力を回復させるために必要なだけの、ラセン神経節ニューロンとならなかったわけです。
そのため、この研究では増殖性細胞をうまく活かすための工夫をしています。
その一つがバルプロ酸です。バルプロ酸は抗てんかん薬として知られますが、神経幹細胞細胞のニューロン分化を誘導するとともに、ニューロンの生存を亢進させることが知られています。
そこで、ウアバインを投与した後、一度難聴になるわけですが、その後、ニューロン分化を亢進させるバルプロ酸を投与したところ、傷害 28 日目後にらせん神経節ニューロンの数を観察しました。
さらに増殖因子とバルプロ酸の同時投与により、著しく増加することを確認したということです。
まとめ
内耳の神経細胞はいちど壊れてしまうと再生することは無いとされていました。しかし、この研究ではラセン神経節ニューロンが再生し、実際にABRという他覚的な聴覚測定検査でそれを確認することができたというところが驚きでした。
これまでも様々な研究で内耳の有毛細胞を再生する試みは実験レベルでは行われてきましたが、より聴力の回復に近づく一つの方法として今後の発展を期待したいです。